山奥ニートの日記

ニートを集めて山奥に住んでます。

一ヶ月前のことを日記に書く

行った直後に日記を書くと特定されそうだったから、しばらく経ってから書こう。と思ってからはやひと月。

仙台に行って来ました。

いわゆる震災ボランディアって奴です。

前に一度行こうとしたんだけど、その時は定員がいっぱいだった。

それで、今回行ったんだけど、今回も定員ギリギリ。

東京から車で行くはずだったんだけど、車に乗りきれないから自分で行ってくれと言われた(交通費は出た)。

せっかくなので、1日前に行ってみた。

行ったその日はなんの因果か3月11日。

14時46分には、駅前のアーケードで黙祷が行われた。

次の日、ボランティアの本部に行ったら、ぼくと一緒のグループはまだついていなかったので、しばらく本部の事務作業の手伝いをした。

そのボランティア本部には、打ちっぱなしのコンクリートの建物に、色んなところから送られてきただろう物資が雑然とならんでいて、まるでドラマのセットみたいだった。

そのボランティア団体は、若者5割、年寄り5割。男女比はほぼ半々。

あとから聞いた話だけど、若者の中にはニートやひきこもりも多かった。

それと、外国人が何人か。まぁそれは団体の母体が母体だからなんだけど。

それから入所式なんて大げさなものじゃないけど、軽く代表者から挨拶。

この震災は若者にとって大きなチャンスだと言っていた。

仕事をしている大人は動けない。

何も持っていない若者だけが、動くことができる。

まったくその通りだと思った。

その日はそのまま休むことになった。

何系のボランティア団体か言うと特定されそうだから、できるだけぼかそうと思ったけど、まあ無理なので言おう。

キリスト教系だ。

だから、泊まるところは教会。

ぼくのグループはだいたい10人くらいだったけど、そのうちの3人は牧師だった。

教会に泊まるのは実は初めてじゃないんだけど、礼拝堂に布団を敷いて眠るのはなかなか楽しかった。

牧師のひとりがすごくお酒好きで、飲まないかと誘われたので一も二もなくついていく。

ちょっと良い感じのところで何杯か飲んだ。

牧師だけあって、面白い話がたくさん聞けた。

牧師もいろいろあるんだなぁ。

次の日は雪が降っていた。

3月と行っても、東北だ。寒い。

現地の人からするといつもより暖かいらしいが。

人数が多すぎることもあって、その日もボランティアは休み。

被害の大きさを見に行くことになった。

仙台から海のほうに向かうこと数十分。

一本の道路を挟んで、何もない土地になった。

そこはまさに荒野で、本当に何もない。

そのなかにたまに人工物がある。

真新しいお墓だ。

このあたりは震災の次の日、何百もの死体が浮いていたのだという。

そして一年経った今も、人は住んでいない。

それから車を飛ばして、石巻へ。

途中、瓦礫の山(本当に文字通り「山」)があった。

瓦礫の処理工場なのだろう。

あれだけの山をすべて処理するには、一体何年かかるのだろう。

石巻はかなり復興が進んでいて、一部の酷いところを除けば、人の気配があった。

今は普通に人が生活しているところも、人より高い津波が来たのだという。

よく見れば、街の建物のガラスがすべてピカピカ。新品だ。

しかし、まだ手を付けられない場所もある。

本当にひどかったところ(石ノ森章太郎の記念館のあるあたりだ)は、今もまだ津波の跡がありありと残っている。

こちらは荒野というより廃墟。

建物の土台だけが残っている。

焼け焦げた小学校、止まった時計。

気分を変えるために、石巻名物の牡蠣を食べることにした。

その場で牡蠣を焼いて食べられるというお店だ。

お店がお店なら何千円もする牡蠣をお腹がいっぱいになるまで食べられた。

牡蠣の殻の開け方を覚えた。

慣れてしまうと楽しい。

海のしょっぱさと、濃厚な牡蠣がつるんと喉に入ってきて、思わず目をつぶってしまうほど美味しかった。

次の日、ボランディアにやっと行った。

被災地まで自転車で行くんだけど、これがつらかった。

ぼくにとって自転車とは、「歩くより楽に移動する手段」で、速く漕ぐことに慣れていなかった。

自分より30は年上の人に励まされながら、ひいひい言ってペダルを踏んだ。

被災地・・・というほど、悲壮感はなかった。

ただ、それは一年という時間が、そしてボランティアの手と地元の努力によってそう見えるだけで、実際その場所は津波ですべて流されたのだという。

仕事は、ビニールハウスの修復。

津波でひしゃげたビニールハウスを解体し、立て直す。

そのビニールハウスの持ち主は気のいい田舎のおじさんで、明るくて親切だった。

津波とはもちろん海水で、畑にはすべて塩が残っている。

「トマトは土に塩をまいて甘くするくらいだからちょうどいい」「ここで採れたほうれん草は始めから塩味がついてる」なんて言っていた。

ビニールハウス解体は、主におじさま達が張り切って、あーだこーだ作戦会議して、とても楽しそうにしていた。

ぼくのような若いものは、その指示で動いた。

あまり力になれたとは言いづらいが、少しは足しになったかな。

しかし順調なのはここまでで、帰り道の自転車でおなかが痛くなる。

ひいこら言って泊まっている教会にたどり着いてそのままバタンキュー。

心配したグループの方が夜、病院に連れて行ってくれた。

熱は38度(ぼくにしてはかなり高い)、ノロウィルスだと診断された。

ノロウィルスの主な原因は、牡蠣…。

そういえばちょっと生っぽい牡蠣を食べたような…。

そしてぼくは丸2日間寝込んだ。

帰る日になって、やっと体調が戻った。

どうやら、ぼく以外の人も…グループの8割近くのひとが体調を崩したようだった。

そんなわけで、何しに行ったのかわからないけど、仙台に行ってきました。

不謹慎だけど、震災は何も持たないぼくらにとってチャンスだ。

既に1年が経ってしまっている。

でもまだチャンスはある。だけどできるだけ早く動かなくてはならない。

少し焦ってしまう3月だった。