地震の日は僕はやっしーと一緒に広島にいて、お好み焼きを食べてた。
気のいいおばさんのやってるお店のテレビでミヤネ屋がやってて、石原慎太郎が会見するっていうんで中継をやってるところに地震がきた…らしい。
流石に広島では感じられる揺れはなかったけど、テレビで流れる黒煙のあがるお台場や、ゴミのように流される車を呆然と見てた。
そのあと僕は帰ろうと言ったんだけど、結局やっしーに従って予定通り旅行を続けた。
車の中じゃテレビは見られないので、Twitterをずっと見ていた。
そのうちにUstでNHKや他のテレビ局の放送も見られるようになって、心配しながら僕はずっと見てた。
僕は結構怖がりで、小さい頃は特にそうだった。
阪神大震災は小学生だった僕の生活にほとんど影響しなかったんだけど、それでも僕にとっては大きな出来事だった。
そして、僕はひとつの結論を出したのだ。
「好きなものは先に食べよう」、と。
美味しい物を最後までとっておいて、途中で地震が来たら食べられないなんてことになったら、死んでも死に切れない。
今回の震災で、そんなくだらないことを考えていたことを思い出した。
今まででも地震や洪水はあって、死んだ人はいた。
でも死ぬのはお年寄りや赤ちゃんがほとんどで、自分が死ぬなんて考えもしなかった。
お年寄りが天災で死ぬのは苦しまない死に方で幸せなんじゃないか、ぐらいに思っていた。
今回の津波は老若男女差別しないで、根こそぎ持っていった。
僕の住んでいるところは海からある程度離れているので、津波はきっと来ないだろう。
だけど、テレビで流れる目を疑うような光景を見ると、人間が生きているっていうのは砂の上のお城のようなものなんだと感じる。
原発についてデマについて偽善について、この震災で思ったことはたくさんあるけど、一番強く思ったのは「死」ってのは案外身近なものだってことだ。
人間ってあっさり死ぬんだ。
持ってるものもあっさりなくなる。
津波で流されないものなんて、自分の脳味噌と人との縁だけだ。
まぁ縁はいくか流されるかもしれないけどw
でもその2つを大切にしないといけない。
気取った言い方をするけど、未来なんて簡単に流れてしまう。
僕の幸せな未来は、日向ぼっこして、物思いに耽って、誰かと会って話がするってことなんだよ。
それが出来るのが40年後だなんて、そんなの待ってられるか。
なんでみんなはあんな誰も予想できなかったことがあったのに、予想できないことがあるってわかったのに、今まで通りの未来が描けるんだ。
どうかしてるとしか思えないよ。
だから僕は学校をサボってこうして日向ぼっこをしているわけです。