さよなら静岡
いよいよ明日が引っ越しの日だ。
結局引越し業者に頼むというニートにあるまじきことをしてしまった。母親曰く、電化製品も親戚にあげるから、とのこと。処分して新しいの買ったほうが効率的だと思うんだけどなぁ。うちにあるものなんて、今の時点ですら7年前のものなのに。
引っ越しの見積もりが、交渉制だとは知らなかった。最初に「いくらくらいでお考えですか?」と聞かれるなんて! 親が大体このくらいかかると言った金額をそのまま伝えたら、失笑をかってしまった。相場はその2倍以上らしい。そういうわけで、一社目とは交渉決裂。次のところでは2万円近く割引できた。
とはいえ思った以上に高い。やっぱり自力でやったほうが良かった。値段交渉も「こう言ったらどうなっただろう」と後から思う。お金で解決するなんて、まったくもってニートらしくない。
さて、気づけば静岡に思った以上に長居していた。
静岡は良い所だ。
うちからは見えないけど、大通りに出れば富士山がそびえ立っている。天気の良い日の富士山は何度見ても霊験あらたかで、思わず願い事でもしそうになる。
そしていつも温かい。僕の部屋が南向きなこともあって、日中差し込む陽の光を貯めておけば、暖房を使うことはほとんどなかった。
自転車で行けるか行けないかくらいの距離にある三保の松原。ここにきたばかりの頃に行った。松の落ち葉の赤、砂浜の白、海の青、空の水色、見上げれば松の緑が順番に積み重なりとても綺麗で、しばらく見とれていた。
都会とは言えないけど、狭い範囲に店が集中していて、おかげで名古屋より駅前に行く意味が大きいくらいだ。日本で一番駅と駅の感覚が狭いという静岡鉄道の雰囲気も好きだった。
静岡で一番好きな食べ物は、うちの近くにあるパン屋の小さな食パンだ。普通の食パンの3分の1くらいの大きさで、チョコが練り込んである。焼きたてでなくてもふわふわで、バターと生クリームの香りがする。
そのまま食べても美味しいけど、ちぎってトースターで焼くのが最高だ。表面の毛羽立った部分が焦げてサクサクになり、練りこまれたチョコレートが溶けていき、生地は綿のように軽い。買ってきて一服しているうちに、気がつけば一斤すべて食べきってしまう。
だけど、そのパン屋さんは昼の11時に開店して、14時にならないうちにすべて売り切れてしまう。休業の日も多いし、あまり多くの回数食べられなかった。でも、このお店より美味しいパンを食べたことがない。
もうひとつの静岡での好物は、川しんの味噌ラーメン。
繁華街の裏路地にある汚い店だ。カウンターはベタベタで、店主はまったく愛想がない。ちょっと怖い。みそラーメン800円と安いわけでもないんだけど、量はかなり多い。たぶん女性は食べきれない。
ラーメンは塩が好きで、その次にとんこつ、しょうゆで味噌はほとんど頼まない。だけど「川しん」の味噌ラーメンは別。
透明なスープの真ん中に味噌が盛ってあって、それを溶かしながら食べる。静岡独特のスタイルらしい。麺はそうめんくらい極細で、チャーシューも細く刻んである。具はもやし。
チャーシューとかめんまとか海苔とか、どのタイミングで食べればいいのか。ラーメンを食べるたびに戸惑う。めんどくさい。その点、川しんのラーメンは全部細くて麺をすすれば自然と具も口に入ってきて色々考えずに済むのがいい。スープともよく絡む。食べていくうちに味噌が溶けていく。食べ始めはあっさりしているんだけど、最後にはパンチのあるスープだ。
駅前に用事があるたび、ここに通っていた。
あんまり外食が好きじゃない僕にとって、お気に入りの店はすごく少ない。静岡を離れることで、この2つのお店のものをもう一生食べないかと思うと寂しい。
もっと他に寂しがるべきことがある気もするけど、人と別れるのは苦手だ。卒業式でも涙の意味がわからなかった。だから今回もこっそりいなくなる。