山奥ニートの日記

ニートを集めて山奥に住んでます。

山奥ニートと不便益

山奥に住んでいて、不便じゃないんですか?

よく聞かれる質問だ。
住めば都とはよく言ったもので、一番近い信号が車で一時間走った所にあるこんな山奥でも、慣れてしまえばあまり苦にならない。

それに、技術は日々進歩している。
インターネットがなければ、とても山奥になんて暮らす気にならない。
逆に言えばインターネットさえあれば、世界中どこにいたって大して変わらないと僕は思ってる。
東京に比べたらテレビ局は少ないけどAbema、Netflix、Hulu等使えば関係ないね。
欲しいものがあれば、ほとんどのものはAmazonで買える。
外の人と話したかったらTwitterや生放送をすればいい。
妻とはあまり会えないけど、Skypeでいつも繋がっている。
人類の叡智をもってすれば、山奥すら快適だ。
便利なのはいいことだ。

一方で「不便益」という言葉がある。
不便だからこそ、良いことがあるという考え方だ。

「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言ってるわけじゃない。
山奥ニートがそんな事言うわけないじゃないか。
それに酸っぱい葡萄の話でもない。

たとえば、貯金箱。
蓋を開けるだけで簡単に入れたお金を取り出せる貯金箱と、一旦お金を入れてしまったら割るまで出せない貯金箱、どちらがいいだろう。
蓋を開けられる貯金箱のほうが便利だ。割らなきゃ出せないほうは、間違えてお金入れちゃっても取り出せないし、お金を下ろすためにいちいち割らなきゃいけない。地球にもやさしくないね。
でも、お金が溜まりやすいのは割らなきゃいけないほうだ。
蓋があったらちょっとお金がなくなるたびに、出して使って貯まらない。
蓋があるほうが便利なのに、不便なほうが目的にはあっている。
これが不便益の考え方だ。

介護の世界では「バリアアリー」という言葉があるそうだ。
バリアフリーじゃない、バリアアリー。バリア、有り。
バリアアリーのデイサービス施設には、わざと長い階段や、段差が設けられている。スロープやエスカレーターをいつも使っていたら足の筋力が弱ってしまう。何の苦労もなく生活していたら、ボケだって進行していくだろう。
わざと不便さを残すことで、お年寄りが自分の力で生活できるように特訓している。

僕の住んでいる共生舎は住所を公開している。
遊びに来たければどうぞ、とも言っている。
普通インターネットに住所を公開したらヘンな奴が来るだろう。
でも今のところ、そんなにヤバい奴が来たことはない。
僕が思うに、その理由は山奥だからだ。ここに来るには相応の覚悟がいる。初めて来るほとんどの人は口を揃えて「想像以上に山奥でした」と言う。山の中では携帯電話だって繋がらないんだ。だからしっかりとした事前準備なしにはここに辿り着けない。
僕らはこの山に守られている。これも不便益だろう。

繰り返して言うけど、苦労するのがいいことだとは思わない。苦労なんてしないほうがいいに決まってる。
でも、苦労するのがイコール不幸ではない。
もし苦労=不幸なのだとしたら、この集落にいる村の人はどうなるんだ。未だに薪を割ってお風呂を沸かしてる人だっている。年金貰えるんだから、もっと便利な町に移り住めばいいのに。お湯なんてガスで一瞬で沸かせるし、スーパーも近くて便利だろう。
でもそうしない。山奥が好きなんだって。

逆も言える。苦労しないことが幸せではない。ニートは親の金で飯が食えて羨ましいと言う人がいるけど、そんな事はない。多くのニートは焦りとプレッシャーの中で戦っている。経験者の僕が言うんだから間違いない。

便利なことと、幸せなことは直接結びつかないんだ。
ある程度の相関はあるだろう。まったく関係ないわけじゃない。
でも、不便なことにも良いことがある。
山奥に来て、一番考えが変わったのはこれかもしれない。

 

 

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今日お昼にイタチが捕まった。かわいい顔してるけど、うちの鶏を何羽も惨殺している。こいつらは食べるために殺すんじゃない、遊びで殺すんだ。殺すんなら食べろよ……。
大きさからしてメスだ。メスのイタチは殺しちゃいけない事になっている。遠くに逃した。もう来るんじゃない。

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