生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。
僕も10代の頃、よく思ってた。
昨日、鶴見済さんと櫨畑敦子さんのトークイベントに行きました。
鶴見済さんは言わずと知れた『完全自殺マニュアル』の作者です。
そのトークイベントの中で、まだ10代と思われる男の子からこんな質問があった。
「自分の子供や若者が『自殺したい』と言ったら、なんと言いますか?」
25年前に『完全自殺マニュアル』を書いた鶴見済さんと、非婚出産をして1歳の子供をかかえる櫨畑さんがどう答えたか、それはトークイベントに行った特権で秘密にする。これから東京と神戸でやるそうだし。
僕はこの前、山奥ニート最年少の子に似たようなことを聞かれたのを思い出していた。その時聞かれたのは「葉梨さんはなんで生きてるんですか?」だったと思う。
その時は「いま楽しいから」と答えたと思う。苦しい答えだ。
それは「楽しくなくなれば死ぬ」ってことだ。
実際、僕はそう思ってる部分がある。
苦しくなる前に、安楽死させてほしいと思ってる。50年も生きれば十分だ。
生前葬してもらって、パーティの最後に毒薬を飲むのが一番いいな。
9月9日に呼んでもらったニュースタートのトークイベントで『クローズアップ現代+』のVTRを観た。
そのVTRは「就職をゴールとしない。生きることがゴールでいいんじゃないか」という流れで締めくくられていた。そしてそれに対して、ニュースタートのスタッフの方は「生きることをゴールにするのはどうかと思う。それで手遅れになった人を何人も見てきた」と言った。
その後に僕にふられて、僕は何と言ったらいいかわからなかった。ひきこもり支援をしているスタッフの方の言葉は、経験に基づく重さがあったからだ。
山奥ニートの本を書くために、南方熊楠について少し調べている。
和歌山でニートをしているなら、避けては通れない巨人だ。
彼に関する本を読んでいたら「レンマ」という言葉が出てきた。
意味がわからず、調べても意味がわからない。
Wikipediaにはこう書かれている。
レンマ(英語: lemma)とは、哲学用語のひとつで、「律」、「句」の意味。ギリシア語ではλῆμμα。「とる」、「受け取る」という直観的な把握の意味のギリシア語λαμβαυωから出来上がっている名詞で、本来的には、チャトゥシュ・コーティカ(サンスクリット語: catuskoti)のギリシア語訳でテトラ・レンマτετραλῆμμαという名前の思考スタイルが、これを4つ使って構成される。
なんのこっちゃ。ツイッターで助けを求めたら友達が教えてくれた。
「ジレンマ」という言葉がある。「ジ」とはギリシア語で「2」のこと。
2つのことに板挟みになって決められない状態を言う。
それと比較して「テトラレンマ」という言葉がある。普通「レンマ」というとこっちを指すらしい。肯定か否定かの2択である「ジレンマ」に対して、こっちは肯定、否定、肯定でも否定でもない、肯定でも否定でもあるの4択らしい。
要するに。
- 生きる
- 死ぬ
これが「ジ(2)・レンマ」。
- 生きる
- 死ぬ
- 生きないし死なない
- 生きつつ死ぬ
これが「テトラ(4)・レンマ」ということらしい。
ギリシア哲学はジレンマだけど、インド哲学はテトラレンマで、南方熊楠はテトラレンマ的に物事を考えていたようだ。
頭で考えていると、ついつい極論に走ってしまう。
肯定か否定か、2つのうちどちらかを選ばなきゃ駄目だと思ってしまうけど、実際の事象ではそのどちらでもない選択肢が現れる。
生きるか死ぬかも、そのどっちでもない状態がある。というか、胸を張って生きてると言える人ってあんまりいない気がする。少なくとも、労働を嫌々やっているなら生きている時間のうち三分の一は生きてると言いづらい。
生きるか死ぬか、そんな2択になった時点で間違えている。
「生きないし死なない」人生も、「生きつつ死ぬ」人生もある。
そう思ったら、なんだかモヤモヤがスッと消えたような気がした。
まぁ質問をした10代の子がこれで納得してくれるかはわかんないけど。
山奥に帰らず、妻の家から図書館通いの毎日です。
山奥ニートの本を1月に出すためには11月までに書きあげなきゃいけないらしい。
山奥は誘惑が多いんですよ。楽しすぎるから。
戻らなきゃ書けないこともあるけど、図書館でないと書けないこともあるので、それが終わってから山奥戻ることにします。