『キャプテン・マーベル』で感じた戸惑いを忘れないでおこう
準新作になったからツタヤで借りて観たんですよ、『キャプテン・マーベル』。
面白いと言われていた『ワンダー・ウーマン』が、ただの女版マチズモでいまいちだったから、正直あまり期待してなかった。
ところがどっこい、ものすごい攻めた映画じゃないですか。
これは『タクシードライバー』や『カッコーの巣の上で』みたいに、観客に「この考え方ってどう思う?」と問いかけるタイプの挑戦的な映画ですよ。
でもそのことに言及してる記事が全然見つからない!
MARVEL映画はこんなに人気なのに、まったく。
しまむらで買ったMARVELロゴ入りのパーカー着てる奴ら、お前ら本当にMARVEL映画の凄さわかってんのか!
しょうがないから自分で書くしかないじゃないか。
『キャプテン・マーベル』のテーマ
作品のテーマってのは、作中に何度も出てくるもの。
『キャプテン・マーベル』では、3回も同じ内容の話をしてる。しかも冒頭・中間・クライマックスの3回。
1回目:冒頭、師匠と訓練する中で能力を使う主人公
2回目:旧友から、レースで近道をする奴だと聞かされる主人公
3回目:素手で勝負しようと持ちかける師匠に能力で勝つ主人公
要するに「キャロル・ダンバースは手段を選ばず勝ちにいく女」ってことです。
それをこの映画は肯定的に描いている。
これって凄い攻めたことですよ。だって、ヒーローって普通、正々堂々と戦うものだから。キャプテン・アメリカがこの話聞いたら怒りますよ。
だけど、キャロル・ダンバースみたいな女性っているよなーって思うんです。
ある瞬間で、すごく現実的になる女性っているじゃないですか。
ネットで有名になった『東京タラレバ娘』のこのシーン。
アメコミ映画に対して「ケーサツと軍で一気に捕まえりゃこんなん10分で終わる」と言う女性。
僕は、妻とボードゲームしたときにゲームが盛り上がるような行動をする時があるんですが、妻は周りの空気を一切読まずに貪欲に勝ちに行きます。
お母さんなんか、全然そういう男の精神の充実といったものを理解してくれないですからね。安かったからってパンツを買ってきてくれたのはいいんだけど、この歳でクマさんの柄はちょっと…。「そんなもん、見えないんだから一緒でしょ」。
男には、昔から騎士道精神や武士道と言った価値観が伝えられています。
敵を後ろから撃たない。自分に得がなくても弱い者のために戦う。武士は食わねど高楊枝。正々堂々、真正面からの決闘。
もしかしたら、そういうものが格好いいという価値観は男性特有なのかもしれません。
だって女性は男性より力が弱いから、正々堂々なんて言ってられないわけです。
浪漫ってのは余裕がないと生まれません。
涙や外見や生まれなど、女性は使える物はなんでも使って、生き延びなければいけなかった。もしかしたら今も。
しかし、同じものを男性が使うと、非難を浴びます。だから男は極力それらを使わないし、使うのを恥だと思っている。
女性からしたらこう思うのかもしれない。
「男が勝手に美学だと決めたものに、女が付き合う必要ある?」
それが『キャプテン・マーベル』って映画なんじゃないだろうか。
『キャプテン・マーベル』を認められない自分
いや正直、キャロル・ダンバースみたいな人、苦手なんですよ…。
これは女性に限らず、ホリエモンみたいな男性でもそうだけどさ。
「近道を使っちゃいけないとルールで決めなかったから、近道した」ってドヤ顔で言うけどさー。そういうルールの抜け穴つく人がいると、すべてのことをきっちり完璧に決めておかなきゃいけなくなるわけよ。そうするとあらゆる事のコストが上がるわけ。だからみんな、「常識」の範囲内で行動してるわけじゃんかー。
だけど、多様性っていうのはそういうことなんだよな。
その「常識」って奴が通用しなくなるわけだから。
「常識」に囚われない、自分と価値観がまったく違う人ってのは宇宙人ですよ。何考えてるかわかんないんだもん。
作中で、フューリーとコールソンはただ驚いてばかりだった。観ている僕もそうだった。
だけど、自分がどう思うかに関係なく、社会は進んでいく。
多様性を認めることは、今の社会の流れであり、それに逆らうことはできない。
コストを上げてでも、共通のルールをはっきりさせておくのは必須事項だ。
…でもやっぱり、僕は男の浪漫とか武士道精神は尊いことだと思うな。人間を人間たらしめているのは、そういう誇りなんじゃないの。
だから、キャロル・ダンバースの価値観を認めるのは、自分の価値観がゆらいでしまいそうで怖い…。
そしてその価値観って、今までMARVELが描いてきた物でもあり、この映画はそれを否定してるんですよ。こんな意欲作ありますか。世界一のブランドは伊達じゃないですよ。
『キャプテン・マーベル』が出した答え
イケメン師匠のヨン・ロッグは、最後までキャロル・ダンバースの価値観を認められなかった。
フューリーとコールソンも、キャロル・ダンバースを理解したとは言い難い。
結局、旧来の友達を除けば、作中でキャロル・ダンバースを一番理解していたのは、スクラル人だったんじゃないか。
あのスクラル人たちって、モテない男たちのことだと思うんです。ブサイクだし、オタクだし。
でも、スクラル人はキャロル・ダンバースに偏見がなかった。
キャロル・ダンバースもスクラル人に偏見なく接した。
果たして、オタクはキャロル・ダンバースみたいな女性と仲良くできるのか。うーん。正直わからない。オタクの一人である僕自身が戸惑っているんだから。
ただ、いわゆる「男らしい」たくましさや強さを持たないオタクたちは、同じく「女らしい」優しさや弱さを持たないキャロル・ダンバースみたいな女性とは対偶の立場にある。
そこに希望はあるだろう。
さて、突然地球に現れて、それまでなかった価値観を披露したキャロル・ダンバース。
フューリーとコールソンをはじめとした男性は困惑する。これから、いったいどうやってこの価値観と共存していこう…。
この新しい価値観のために、いろんな仕組みを変えていかなきゃいけない。これはおお仕事だぞ。
そう慌てる男たちを尻目に、キャロル・ダンバースは「じゃ、わたし別の用事あるから」とだけ言い残して去っていく。
そんな問題自体も、男が勝手に作り出したものだと言わんばかりに。
フューリーはS.H.I.E.L.D.を作ることを決意するけど、それもキャロル・ダンバースにしてみりゃただのお遊びにしか見えないんだろうな。
この戸惑いを忘れないでおこう
視聴後に思い出したのは『かぐや姫の物語』だった。
あれもまた、女性という宇宙人が地球にやってきてかき回していく話だったから。
僕はかぐや姫を「無茶振りして結果死人を出してて酷い奴だな」と思っている。
けれど、僕の妻はあの映画が大好きで、大変共感するらしい。
今の僕にはまだ『かぐや姫の物語』の素晴らしさが分からない。もしかしたら、男である自分には一生わからないのかもしれない。
だけど、妻をより理解するためのヒントとして、これから何度も繰り返し見ようと思っている。
『キャプテン・マーベル』も同じだ。
この映画は僕の価値観を不安にさせる。
「フェミニズム」というものを考えるたび、僕はこれからこの映画を思い出すだろう。
それが正しいのか間違ってるのか、今の僕にはわからない。
だけどとりあえずは、この戸惑いを忘れないでおこう。
(ダンバースのキャラ紹介が少なすぎって感想もあるけど、僕はブリー・ラーソンの歩き方と、予告でも使われてる立ち上がるシーンだけで十分描写されてると思うね!)
(先に『エンドゲーム』観たんだけど、『キャプテン・マーベル』観た後だと「もうちょっと地球に愛着持ってもいいんじゃないのダンバースさん」と思う)
近況2019/09/30
この前の誕生日で31歳になりました。
21歳の人へ。あんまり31歳になっても変わらないです。しんどいことはしんどいままだし、好きなことは好きなままです。
41歳の人へ。体は痛くないですか。僕はいま2年に1回くらい腰痛になります。これが1年に1回になり、1ヶ月に1回になるのでしょうか。嫌だなぁ。
9月22日には岐阜の若者・ひきこもり共同実践交流会に出てきました。
ずいぶん立派な会場で、参加者も300人くらいいたらしい。
びっくりした。
ぼそっと池井多さん、格好良かったなぁ。
僕はいつものように、最初はおどおどしながら、途中からは調子に乗って、あれこれ喋った。
30分だけだったから、疲れないかと思ってたけど、やっぱり疲れた。
最後まで参加するつもりだったけど、体力持たなかったので、サンドイッチだけ頬張って逃げてきた。
この交流会の前後は、瀬戸さんの岐阜最強ビルに滞在させてもらった。
名鉄岐阜駅から徒歩5分。ビルからホールで電車を待つ人が見えるほど近い。
中はこんな感じで、がらんどうの部屋ばかり。
2階のコワーキングスペースも、誰も使ってないので、ほとんどここに入り浸って原稿をした。
夜はビルの屋上で寝た。
実は、これがちょっとした夢だった。
街の真ん中で横になってるのに、誰からも怒られず、奇異の目線も向けられることなく、安全が確保されている。
夜風が気持ちよくて、すぐ眠ってしまった。
岐阜最強ビルは、まだ空いている部屋がたくさんあって、どうするか決まってないみたいだから、岐阜や名古屋のニートは瀬戸さんに挨拶したらいいと思う。
シェアハウスもやるみたいです。
瀬戸さんとってもいい人だから、上手くいって欲しいなぁ。
夏の3ヶ月やってたかき氷屋さんを閉めると言って、在庫をたくさんご馳走になってしまった。ありがとうございました。
岐阜は本当に良いところです。まとまりがある分、名古屋より都会なんじゃないかと思う。
その後は、西成地区行ったり、和歌山電鐵のうめぼし列車乗ったりしています。
いい加減に原稿を終わらせないと、いつまで経っても本が出ないので、原稿がんばります。
終わったら、youtubeやりたいなぁ。
山奥ニートと8月
今年の夏もやっぱり暑くて、じっとりとTシャツを背中に張り付かせながら書いている。
それでも山奥は平野に比べればずっと涼しくて、クーラーを動かしたのはまだ3〜4回だけだ。
川が近くにあるんだけど、毎年行くのが面倒で川遊びし始めるのは夏も終わりかけた頃になっていた。今年は5月から川に行くようにしている。水は冷たい。真夏でも、1時間浸かっていると凍えるくらい冷たい。
ほしいものリストに入れていたシュノーケルを送ってくれた人がいたので、試しに潜ってみたら数十匹の魚が手の届く範囲に見えるもんで、とても楽しい。芸能人がハワイや沖縄に行ってダイビングしたがる理由がわかった。
ニートなのに、徒歩3分でダイビングスポットへ行って泳ぐというブルジョワな遊びができるのは贅沢だ。まぁ南の海に比べたら魚は地味だけど、それ以外変わらないんじゃないかと思う。ありがたいことに、ここ最近来た見学者の人たちがお酒を持ってきてくれているから、川で一杯と洒落込むこともできる。
*
旧暦ではそろそろ秋ってことになるらしい。
この旧暦って奴、子供の頃から納得できたことがない。
「今の8月=葉月=旧暦の秋」って言い方は正しいんだろうか。
だって今からぴったり200年前、7万1200日前は暑かったんでしょ。秋じゃないでしょ。
2ヶ月くらい旧暦と新暦の季節のズレがあるんなら、睦月や如月を「数字+月」って呼び方に変えようって時に、ズラせばよかったんじゃないの。睦月が3月で、如月が4月だ。
そもそもこの「数字+月」って言い方って実は珍しいんじゃないか。
だって、英語じゃAugustじゃん。入力欄では「08/20/2019」みたいに使われてるけど「8th month」って言ったら変な奴だと思われるんでしょ?
日本の昔からの暦の呼び名を廃止して、わかりやすく「数字+月」制にした人は偉いね。
きっとアメリカじゃ、子供がヒイヒイ言いながらAugustの綴りを覚えてるんだろう。かわいそうに。カエサルはたくさんの子供に恨まれてるだろうね。
そういや、英語で10月はOctoberだけど、Octoってラテン語で8なんだよね。
だから、これも2ヶ月ズレてるの。古代ローマじゃ、一年の始まりは農業が始まる今の3月だったからなんだって。太陰暦とは違う理由でズレてるのに、そのズレがだいたい一致してる。
面白いシンクロニシティじゃない?
*
どうでもいい話をしてしまったけど、ここ数日の山奥は少し涼しくなって、ひぐらしがよく鳴いている。
盆と正月はなぜかニートも忙しくなるもんで、もろもろ所用で少しの間、僕は山奥を離れることになる。
つまり僕の夏はもう終わりってこと。暦通り。
だって街なかの夏なんか夏じゃないよ。あれは季節じゃない。災害の一種だ。
戻るのは9月半ばくらいだと思う。
暑いけど冷たくて、混沌だけど秩序で、賑やかだけど静かな、いい夏だったな。
いい秋が来ることを祈る。
日記2019/04/17
スマートフォンが届いた。
妻が僕に送ったものだ。
最近僕がTwitterもblogも書かないもんだから、何をやっているかわからないと業を煮やして買ってくれた。
一年ほど前に5000円のFireタブレットを買ってしばらく使っていたんだけど、どうにも鈍い。カメラも少し暗いと見れたものじゃなく、次第に使わなくなっていた。安物買いの銭失いだ。
スマホを手に入れたと言っても、とりあえずはwifiだけで使うつもりだ。どうせ山奥を降りることなんてあまりない。最近じゃゼロシムなんて言って基本料がタダのものもあるみたいだけど、必要に迫られてから考えよう。
そんなわけで、午前十時ごろ布団の中から妻に「おはよう」と送る。
しばらくノートパソコンを開いて何かやってるうちに腹が減ったのでリビングへ。
イタドリか何かの山菜のアク抜きをしててコンロが全てふさがっていたから、アルミホイルにマヨネーズで土手を作って卵を落とす。ウィンナーと一緒にオーブントースターに入れて10分。昨日の残りのご飯の上に乗せて食べる。
僕の知らない洋画を2~3人が見ていた。
部屋に戻って、さて何しようと思っているうちに鼻血。
この時期は鼻血が出るものなのだ。子供のころからずっとそう。
花粉なのか季節の変わり目なのかわからない。
他の人は滅多に鼻血を出さないと知って驚いたのは二十歳を越えてからだ。
鼻をかんだ時に出る鼻血はすぐ止まるが、今日みたいに自然と出たときはなかなか止まらない。
鼻に詰めたティッシュがみるみる真っ赤に染まる。
何年か前に一回医者に診てもらうべきだと友達に言われて、耳鼻科へ行った。
女医に「いつからですか?」と聞かれ、「産まれてからずっとです」と答えたら笑われて、それきりだ。
結局原因はよくわからない。
同じ鼻血よく出る仲間と出会ったときに、鼻の内側をコテで焼かれたという話を聞いた。
そんなの恐ろしくってたまらない。
山に住む爺さん婆さんは医者嫌いが多い気がするけど、僕もその一人に連なるようだ。
ようやく血が垂れてこなくなったので、外にある手洗い場で顔についた血を落とす。
出血したのは300mlもないだろうけど、鼻血が出た後は貧血なのか頭がぼーっとしてふらふらする。喉が乾くし、塩辛いものものが欲しくなる。
「血が足りねえ、何でもいい、食いもんじゃんじゃん持ってこい」
カリオストロの城のルパンの気分だ。
ルパンと言えば、原作者のモンキー・パンチさんが亡くなったらしい。
彼の人の漫画は一度も読んだことがない。
Twitterで流れてきた「これで銭形警部が一人飯する漫画が書けるな」というのには笑ってしまった。
不謹慎な笑いだ。
自分が死んだことをネタにされる気分がどういうものなのか、想像がつかない。
結局、午後はだるくなってしまって、文庫本を3分の1ほど読んだだけで終わってしまった。
日暮れ前に、せっかくスマホがあるのだから、何か面白いものを撮ってフォロワーに見せてやろうと家の周りをうろついたが、枯れかかったスズランが弱々しく咲いているだけだった。
グループチャットの通知が来る。
買い物に行った人が、刺身を買ってくるらしい。
今晩は宴会になりそうだ。
だるさは抜けないけど、一人で何かする気力もないので、重い頭でリビングに行ってみようか。
山奥ニートは"超"山奥ニートになりました
我らが五味集落までの道が、工事により全面通行止めになりました。
2018年夏の台風のせいで、一部の道に穴が開いて鉄板の上を車が通っている状態でした。
これからは町に行くのに、大きく遠回りする林道を通らなければいけません。
今まで駅まで1時間半だったけど、プラス30分以上は余計にかかります。
僕は通行止めになって以来まだ町に降りてないけど、話によると今まで以上に細い道で、待避所もなく対向車とのすれ違いは大変らしい。10分で標高650mを駆け上る道で、険しいけど景色はいいみたい。
この工事、あと2年続くそうだ。(冬期は工事中断)
こんな山道を直してくれる日本はすごいけどね。
そういうわけで、送迎のお願いはなるべく控えてくれると嬉しいです。幸い、行政がやっている住民バスは今まで通り運行してくれるみたいです。
今までは配送業者がほとんど毎日来てくれてたけど、これからは週に一度程度にするって。
今までここは山奥だったけど、これからは超山奥です。
でもとりあえずは、変わらずのんびりやってます。
※自力で来る人用案内
じーまさんが画像用意してくれました。
走行してるとだんだん不安になってくる道ですけど頑張れば着きます。共生舎に向かう方向に向かって写真を撮影しています。
ニート祭り2019、運について
まだ山奥に戻っていませんが、ようやく安定したネット環境の場所に着きました。
ニート祭り2019お疲れ様でした。
立ち見多くて大変そうでした。年々人が増えてる気がします。
最後の「運」についての話を上手くできなかったので、あの後考えたことを書きます。
ニートはどうしたら幸せに生きていけるか、という問いに対して若新雄純さんが「ニートで成功するのは運がいい奴だ。人生運が7割」と言っていた。
でも、この「運」という言葉が使われるとき、二種類の意味がある。
僕らが人生において運という言葉を使うとき、それは多くの場合「縁」のことを言っている。若新さんが笑顔と清潔さで引き寄せられると言っていたのはこっちのほうだ。
最近になってようやくわかってきたけど、人間ってのは気づかないうちに他の人のお世話になってるらしい。
冷蔵庫にプリンがあったらラッキー!と思うけど、それは僕のためにプリンを残して置こうと思った人がいるからだ。乱数によって分子構造がプリンの形態を偶然取ったからそこにあるわけじゃない。僕のことを考えてくれる人がいたという「縁」があったから、プリンがあるのだ。身だしなみを整えるのが苦手な僕にとっては耳の痛い話ではあるけど、きっといつも笑顔で清潔そうな格好をしていれば、「縁」は強化されていく。
だけど運ってそれだけじゃない。
笑顔で清潔な人と、怒ってて不潔な人がサイコロを交互に振って、どちらかの出目が常にいいなんてありえない。この世界には「縁」じゃない純粋な「運」がある。生まれながらの障害だったり、雷が落ちて感電したり、どうやったって自己責任にできないことがある。
僕はTRPGやボードゲームが好きだ。ゲームをしていると、どうしたって「運」と向き合うことがある。性格がいいやつが勝つわけじゃなく、絶対に負けたくない非道な奴にも、「運」で負ける。低い確率の不利益が連続して起こると、プレイが雑になって、悪態の一つもつきたくなる。
ポーカーには「ティルト」という言葉がある。「プレイヤーが感情にかられて合理的な行動ができなくなった状態」という意味だそうだ。僕はポーカーをやらないけど、その気持ちはよくわかる。また1ゾロかよ! また土地かよ! 嫌になってくる。
プロのポーカープレイヤーはティルトをどうやって回避してるんだろう。ある人はこう言う。「ポーカーが単なるゲームだってことを思い出すんだ。ゲームを楽しめなくなっていたら、もうプレイする必要はない」。
僕は運のいいニートだ。「縁」のいいニートだったと言ってもいい。
だけど、本当の「運」はまだ試されてない。これはコントロールできない。
「運」が悪いとき、せめてティルトに陥らないようにしないといけない。
僕はニートで人生経験が少ないから、自信がない。
だから僕は、小さな楽しみや可笑しさを見つけるんだ。
人生がゲームで、楽しいものだと常に思えるように。