山奥ニートの日記

ニートを集めて山奥に住んでます。

大いに語る

この2、3日の生活のリズムがやばい。

12時間寝たかと思えば徹夜して、バイキングで動けなくなるぐらいに食べたかと思えば、日中飲まず食わずだったり。

とりあえず、あそこのバイキングは使える。場所もいいし。人も少ないし。特別美味しいわけではないけど、フライドポテトとグラタンはかなりのものだった。

穴場発見。

げんしけん、合宿はやっぱりOVAなのね。

なんかオタクを馬鹿にした商売のよーな・・・

そして原作もそうだけど、スージーとアンジェラって別に要らなくないか・・・?

でも、荻上がっ!!!

かあわあいいいいいいいいいいいい!!!

年賀状シーズンだね。

一通もこっちから送る気ナシ。

いい機会になるから、悪い習慣じゃあないと思うんだけど、どうも億劫で。

こっちから送らないから、たぶん来ないと思うけど、念のため言っておく。

宛名に噺って書くなっ!

親から突っ込まれるじゃないか!

Jの組曲が100万再生だって。

100万って凄い数だよなぁ。

タワレコのポップに「YouTubeで一ヶ月に一万再生!」っていうのあったけど、大して凄くないように思えてくる。

昨日の夜は夜更かししてメッセ。

聖美@ミリオンおめでとうJ! の発言 (5:18):

じゃあ、胸のどこがいいわけ?

噺 / きぎた の発言 (5:18):

え、本気で語りますよ

噺 / きぎた の発言 (5:18):

あのやわらかいところ。もちろんやわらかいだけならゴム鞠でももんでりゃいいわけですが、胸という位置。この位置にあることから、胸に近づくと無防備になるということです。つまり胸を近くで見せるということは信頼されているということと本能的に思うわけです。それに加え、よく言われることではあるが、乳児の頃の深層心理に埋もれている記憶が蘇って、安心するわけです。この時の胸の大きさは大きい方が良い。というかこれは一般的なおっぱい好きにたいするイメージとして大きい方が良いというのがあるが、しかし僕個人としては小さいということを恥じらうその仕草に惹かれるものがあります。そしてまた僕の敬愛するケンドーコバヤシは次のような名言を残しています。「おっぱいを差別することは俺が許さない!」 これは大きい方がいいか小さい方がいいかと問われた時に対する答えで、そこにおっぱいに対する無償の愛を感じた。そもそも、おっぱいを大きい小さいで分けること自体、僕はおっぱい学がまだ学問的に熟してないと考えるひとつの理由であります。この場で言うことは憚られますが、様々なタイプがあり、それぞれに思い入れのある人がいるのです。それを2つにわけてああだこうだ言う議論自体幼稚だと僕は思う。読者諸君はおっぱいが2つしかないということに疑問を感じたことはないだろうか。獣はたくさんあるのに大して、人間のおっぱいは2つしかない。これは一体どういうことだろうか。僕はこの問題について長年考えてきた。そしてあるサイトを見た時に、それはまさに天啓というべきだろう、問題解決の糸口が見えたのだ。おっぱいの数は2コ。ニコである。そう、つまり、人々をニコニコさせるために人類のおっぱいは2つなのではないだろうか! この考えには我ながら驚いた。それはすなわち神が人間にむけたメッセージであるかのようにおもえたからだ。我々は神に愛されている。しかし、人間はなんと愚かだろう。神が我々に向けたメッセージを読み解こうともしないでくだらない争いを続けているのだ。ここで凡人ならば結論を出したであろう。しかし、僕はさらなる真理を求めるために考えを進める。神が与えたもうおっぱい。それは果たしてただのメッセージなのだろうか。否。それだけであるはずがない。おっぱいには人類をより高見に押し上げるだけの弾力がある。そして、この地球に平和が訪れるであろう。ここまで僕が言い切るにはもちろん根拠がある。どんな金持ちも、どんなに貧乏人でもおっぱいの数は2つなのだ。男にも女にも。何故男にもおっぱいがあるのだろうか。まったくなんの役にもたたないのに。僕はこう思った。これも神からのメッセージだ。体の最も見やすい位置にあるおっぱいを見ることによって、我々は平等であることを思い出させるためなのだ。この現代社会、他人に胸を見せることはほとんどない。しかし、そのことこそが世界に争いを生んでいるのではなかろうか。おっぱいのふわふわしたやわらかさにいやされないものなどいないだろう。すき焼きやハンバーグが嫌いという人は広い世の中、いるかもしれないが僕は未だかつておっぱいが嫌いという人を見たことがない。考えても見て欲しい、この地球上の全人類がひとりの例外もなく好きなものが他にあるだろうかいやない。宗教も、国教も、民族も超えて愛されるおっぱい。愛されるだけではない。そこから活力を得ることができるのだ。誰からも愛され、しかも無限のエネルギーがわき出てくる。石油だのハイドロなんちゃらだと言うが、未だかつておっぱいを資源として考えた者がいないということは僕は人類にとって大いに恥ずべきことだと思う。政府は一刻も早くおっぱいを有効利用できる方法を考えるべきである。ここまでで資源という言い方に反感を覚えた方もいることだろう。たしかにその表現はやや不適切だと筆者も思う。なぜならおっぱいは消耗品ではないからだ。賞味期限はあるが(消費期限ではないのである)、それまでは減ることがない。しかし、僕の貧弱なヴォキャブラリーではこの素晴らしいものを表現することができないのだ。いや、自嘲するべきではないのかもしれない。おっぱいはおっぱいであり、なおかつおっぱいなのだ。それに対する言葉はどんなに綺麗な言葉であっても、「おっぱい」という響き以上にそれを表現することはできないのであろう。念のため言っておくが、これは僕が日本国をひいきしているわけではない。ただ、日本人女性の胸のふくらみにはおっぱいというたおやかでやわらげな言葉がぴったりだと思うのだ。合衆国の放漫で攻撃的な胸はバストと呼ぶにふさわしい。

なんて。

語ってみたりして。