山奥ニートの日記

ニートを集めて山奥に住んでます。

生存ポイント

 僕が「山奥ニート」ではなく「ただのニート」だった頃、世の中から置いていかれるのが怖かった。

 世の中には「生存ポイント」という目に見えない数値があると思っている。このポイントが高いほど人生が生きやすくなり、低いほどちょっとした事で転落してしまう。
 生存ポイントが高いのはどんな人だろうか。
 体を鍛え、格闘技を習った人は戦闘力が高くて生き残りやすい。
 でも、弱肉強食と言われる野生動物の世界ですら、単なる戦闘力が生存に繋がることは少ない。もしそうならアフリカ大陸はライオンだらけになり、ネズミは絶滅している。
 いわんや人間社会をや。個人の戦闘能力の高さの差などに大した差はなくて、それよりもどれだけお金を持っているか、安定した職についているか、見目麗しいか、愛嬌があるかなどが生存ポイントに繋がる。

 日々の暮らしの中で、生存ポイントは増減し続けている。
 老いるほど生存ポイントは減っていく。お金が貯まるほど上昇する。経験を詰むことでも、新たな人と知り合うことでも増えていく。
 世の中の人たちが仕事をして、経験とキャリアと信頼とお金を得て、毎日どんどん生存ポイントを積み重ねていくのに、部屋に閉じこもっているニートの僕はまったく生存ポイントが増えず、どんどん生きづらさが増していく。その状況が恐ろしくって、朝を迎えるたびに叫び出したくなった。
 でも働く気は全然起きない。外にでかけて知り合いを作れば生存ポイントは上がるだろうけど、それには莫大な体力が必要だった。

 僕はせめて暇つぶしの中で少しでも生存ポイントを稼ごうと思って、将棋のゲームをやっていた。
 RPGアドベンチャーゲームに比べて、将棋のほうが生存ポイントがほんの少し高いと思ったからだ。だってほとんどのゲームはリリースされてから5年も経てば飽きて辞めるけど、将棋ならこれからの人生の中で誰かと指すことがあるかもしれない。そのときに強ければ、気に入られて何か奢ってもらえるかもしれない。
 アニメや映画で気に入ったものがあったときは、ブログに書くことにした。見っぱなしより、文章を書くことによって、僕のことを好きになってくれる人が現れたり、自分の文章を書くスキルが身につくと思った。
 もちろん、そんなせこせこした生存ポイントの稼ぎ方をするより、働いたほうがずっといい。1日働くことで得られる生存ポイントを100とするなら、こんな遊ぶゲームを選ぶことによる生存ポイントは1とか0.1でしかない。
 でも、その差によって僕がニートできなくなる瞬間が早まるとしたら。
 そう思って、少しでも生存ポイントが高いと思うほうを選んできた。

 正しかったのかは分からない。ゲームの選び方の話だって、考えようによっては、流行のゲームを遊ぶことで出会った人と世間話ができるし、誰も知らないようなマイナーなゲームをプレイしていることで、偶然それをプレイした人と会えたとき、意気投合するかもしれない。
 ただ、生存ポイントを意識すること自体は、意味があることなんじゃないかと今でも思っている。
 僕は将棋ゲームをしていたことでお年寄りと一局指すことができたし、ブログに文章を書いていたから本を出版することができた。

 都会に行ったときや無料アプリを開いたときに出る広告は、僕の生存ポイントの増減を気にしない。むしろ消費者の生存ポイントが下がるほど、経済はよく回るようになる。逆に生存ポイントが上がることが、大々的に宣伝されることはない。
現代社会において、ニュートラル状態の人間は生存ポイントが低くなるほうへ流されていく。だってそうなるように、広告会社の人は毎日知恵を絞ってるんだから。
だからAとB、ふたつの事から選ぶとき、生存ポイントが高そうなほうをほんの少しだけ価値を高く見積もって選んだほうがいいと思う。

 ……なんかこういうこと言うと、本屋に平積みにされてるキャリアポルノみたいだ。
生存ポイントを身につけるために、生活を歪めるのは野暮だ。
そんなの長続きしないし、窮屈だ。僕はぶよぶよのお腹を引っ込めるために運動すれば確実に生存ポイントが上がるんだけど、ダイエットって大変そうで全然できない。
生存ポイントを集めること自体が目的になってる人をたまに見かけるけど、それはそれで自分の意思で選択しているのか疑問だ。
 僕は山奥ニートとして遊んでいる中で、無理なく取れそうな生存ポイントを取っているだけ。
 繰り返すけど、ちゃんと仕事すれば何百倍もの生存ポイントが得られると思うよ。

 それができない僕は、わずかな生存ポイントをかき集めて、少しでも引き離されないようにしてるんだ。